2章16節では、人に対するはじめての命令が語られます。今回はこの命令が意味すること を取り上げます。
[創世記2章16~17節]
16 神である【主】 は人に命じられた。 「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。 その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
16~17節は、原文では、主が「命じた」という表現になっています。
主が人間に初めて「命じた」箇所です。
「命じられた」は、ヘブル語で「ツァーヴァー」( צָוָה) ですが、これが、正確に訳されていないのです。日本語訳では、16節は、 命令というよりも、許容的な表現になっています。
「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」このように、柔らかい表現に変わってしまっています。
けれども、新共同訳は 原文に忠実に「園のすべての木から取って食べなさい」 と訳しています。
こちらの方がずっと良い訳だと思います。
創世記2章9節には 「神である【主】は、その土地に、見るからに 「好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのち の木を、また善悪の知識の木を生えさせた」 とあります。
見るからに好ましくとは、人間の目からではなく、神の視点から見て好ましい木なのです。
つまり、主 は人に食べさせるために、木(=神のことば)を生えさせたのです。
「すべての木を食べさせる」ために、「生え させた」 はずです。
神である 主は 命じられた 「あなたは思いのまま食べてよい」 と訳された 「アーホール・トーヘール」( אָכֹל תּאכֵל ) は、文法的視点から 「あなたは必ず食べなさい」と訳すことができます。
ヘブル的強調法が使われています。
(17節にある「あなたは必ず死ぬ」 と訳された 「モート・タームート」(מוֹת תָּמוּת )と同様、「不定詞+2人称単数男性未完了形」(同じ子音が重ねられている)は 「ヘブル的強調法です。)
つまり16節は「あなたは園のすべての木から必ず食べなさい」 という強い命令のことばです。
17節には「それから」 を意味する「ミンメヌー(מִמֶּנּוּ)」がありますが、それが 訳されていません。
けれども、原文では、明らかに 「善悪の知識の木」 だけを指しています。
17節では「ミンメヌー(מִמֶּנּוּ)」 が付くことによって、善悪の知識の木に限定されて、そこに焦 点が当てられて強調されているにもかかわらず、新改訳では 「それから」 を意 味する「ミンメヌー」(מִמֶּנּוּ)が正しく訳されていません。その点、新共同訳 は「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」 とあります。 木全体の中からそれだけを取り出して食べることを、主は警告しているのです。
2章の16と17節は実際には一つの文章になっています。
見るからに好ましくとは、人間の目からではなく、神の視点から見て好ましいということです。
「すべての木をどの木からでも取って食べなさい」とは、神の目から見て人が食べるために良いとするものを生えさせたのです。
そのすべての木、中央にある「いのちの木」も、「善悪の知識の木」も全てを食べるようにと全ての木を生えさせたわけです。
それが重要になところです。
そして、この木は神の言葉の象徴なのです。
すべての木を食べさせるために生えさせたわけです。
「食べなさい」は、「必ずせよ」という強い命令形になっています。
「不定詞+2人称単数未完了」という文法です。
「あなたは必ず食べよ。あなたは必ず死ぬ。」これは2つとも強い言葉です。
なぜ神が強い命令で警告したのでしょう。
原文から読み解くと、実は善悪の木の実だけを取って、それだけで単独で食べることのないようにという警告なのだということがわかります。
それだけを食べると、あなたは必ず死ぬということが書いてあるのです。
善悪の知識の木から、それだけをあなた方が食べる時、あなたは必ず死ぬと17節に2回も使われています。
善悪の知識の木を限定して強調して、それだけをとって食べると死ぬのだよということです。
エデンの園には、「いのちの木」や「善悪の知識の木」の他にも多くの木が生えていました。
その木の中から「善悪の知識木_」をミンメヌーというヘブル語を使って限定されています。
「善悪の知識の木」だけを限定して取って食べると必ず死ぬということです。
どうして神は食べたら死ぬような木をわざわざ置いたのかというような話ではないのです。
全てを食べなくてはいけないのですが、限定してそれだけを取って食べるなら死ぬという話なのです。
今までの既成の発想とはだいぶ違いますね。
「善悪の知識の木」に限定して焦点を当てて強調されているにもかかわらず、おかしな訳になっています。
その全体から限定してそれだけを食べる事を主は警告していたのです。
神の木の全てを必ず食べなさいという神の強い命令に対して、「善悪の知識の木」だけを限定して食べさせることがサタンの策略だったわけです。
「善悪の知識の木だけを取って食べると神のようになるからね。」と言って、騙したのです。
ところで、なぜ 「善悪の知識の木」 から食べることで「必ず死ぬ」 ことになるのでしょうか。
イェシュアが来られるまでこのことが明ら かにされることはありませんでした。「いのちの木」 であるイエシュ アが現れることによって、初めて「善悪の知識の木」 が死をもたらす ものであることが明らかにされたのです。
使徒パウロは、この「善悪の知識の木」 のことを「罪と死の律法」と呼びました。彼はイェシュアに出会うまでは、それ、すなわち、「罪と死の律法」に支配されていることに全く気がつき ませんでした。しかし、イェシュアと出会うことによって、「いのちの 御霊の律法」(いのちの木)であるイェシュアこそが「罪と死の 律法」(文字に仕える者、律法主義)から解放してくださる方であ ることに、霊の目が開かれたのです。
[ローマ人への手紙 8:2]
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
「善悪の知識の木」こそが「罪と死の律法」だったのですね。
けれども、「善悪の知識の木」も必要な木なのです。
なぜなら、箴言には、知識を持ち知恵を持つことがいかに重要かが書かれています。
善悪の区別もつかず、判別もできないなら、それは大問題ですよね。
けれども、キリストの助けなしに単独で「善悪の知識の木」を食べ、律法を行おうとする時に、霊的な死をもたらすのです。
「善悪を知る木」だけを食べていても「いのち」に与れないばかりか、逆に自分を追い込み、喜びも平安もない迷宮に入り込んでしまうのです。
キリストの「いのちの木」を食べない限り、人は閉塞感でがんじがらめになってしまいます。
「善悪の知識の木」そのものが悪いわけではなく、それだけを「いのちの木」抜きで食する時に霊的な死をもたらすのです。
この奥義は、イェシュアという鍵が入って、ようやく意味と力を持ち、正しく扱われるのです。
では、実際には、「いのちの木」を食べることなく、「善悪の知識の木」だけを食べているとどうなるのでしょう。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
生まれつきの盲人がいて、弟子たちはイェシュアに質問します。
「この人が生まれつき盲人なのは、この人が罪を犯したからですか。あるいは両親が罪を犯したからですか。」
このような質問自体が善悪の知識の木だけを食べている人の質問です。
盲目にされたのは、この人が罪を犯したからなのか、それとも親が罪を犯したからなのかと罪定めをしようとしています。
善悪の判断をしようとしているのです。
この罪定めが、善悪の知識の木だけを食べて成功した者の姿です。
それに対して、「いのち木」そのものであられるイェシュアの答えは、「その人が生まれつき盲人なのは、神の栄光が現れるためです。」でした。
イェシュアは、罪定めはしていません。
実は私たちも生まれながらの盲人です。
すべての人間が盲人なのは神の栄光が表されるためなのです。
[ローマ人への手紙 11:32]
神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
勿論、私たちが、サタンに騙されたので、アダム諸共、人類は罪に堕ちました。
けれども、それさえも神にとっては想定内のことだったのです。
人が罪に墜ちることを知り抜いていた神は、そのことさえも神の栄光の現れる御わざの一部としてくださったのです。
これが昼のわざなのです。昼のわざは神のわざであり、神の栄光が現れるわざなのです。
マタイの19章16から22節にも同じようなことが書かれています。
[マタイの福音書 19:16,17,18,19,20,21,22]
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
ある時1人の青年がイェシュアのところに来て尋ねます。
「永遠の命を得るためには何をしたらいいですか?」
これも善悪の知識の木だけを食べて成長した若者の質問です。
「何をしたら永遠の命を得ることができますか。」という「何をしたら」の質問なので、イェシュアは「律法を守りなさい。」と言われます。すると「それは小さい時から守っています。他に何かすることありますか。」と返します。
それで、イェシュアは、「では、あなたの財産を全部売り払って貧しい人たちに分け与えなさい。そうすれば命はいます。」と答えるとその青年は悲しみながら去っていきました。
「永遠のいのち」は「何をしたら」では得られないのです。
神が分け与えるものを受け取る時「いのち」を得るからです。
イェシュアは死んで復活しました。
そのことにより、最後のアダムが最初のアダムを完全に終わらせたのです。
そして、3日目にいのちを与える霊となられ、私たちの霊を再生させて、内住してくださいました。
主の御霊が人の霊の中に入ってくださり、聖霊が働く時、永遠のいのちを受けるのです。
この「永遠のいのち」から「いのちの水」が湧き出てきます。
「永遠のいのち」は、既に包括的に与えられていると霊の中で信じることで実体化します。
人間がするべき事は何もありません。
何をしたら永遠のいのちを得ることができるか?
何もしなくていいのです。
神がしてくださったことをそのまま感謝して受け取ればいいのです。
がんばって自分の力で得ようとする人ほど、「善悪の知識の木」だけを食べて、罪定めするものです。
自分の力で得ることができる(律法を果たせる、実行できる)と思い込んでいたパウロでしたが、実際には守れないのです。守りきる事は決してできないのです。
それはイェシュアによって、そして、御霊によってのみ得ることができるのだとパウロは悟ったのです。惨めな私を誰が助けてくださるのかといったパウロが、御霊によっていのちを見出し、霊の目が開かれたのです
[ローマ人への手紙 7:24,25]
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
[ローマ人への手紙 8:1,2]
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
「善悪の知識の木」だけを食べた者の結末が律法主義ということです。
それがイェシュアを殺し、イェシュアを排斥したのです。
自分たちは善悪を知ることができるし、自分たちの力で律法を成就できると思い込むことこそが、善悪の知識の木の最骨頂だからです。
だから、「善悪の木それだけを食べると必ず死ぬよ」と言われたのです。
律法主義をパウロは幼稚な教えと言いました。この世のもろもろの霊とも言いました。
[コロサイ人への手紙 2:8]
あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。
私たちクリスチャンは元は幼稚な教えから始まります。
善悪の知識の木で長い間生きていますから、イェシュアを信じてもうしばらくは肉の思いのままです。
キリスト教では「これは良いのですか?悪いのですか」と確認をしたり、「これをしても良いのですか?してはいけないのですか。」と尋ねたりします。
これを罪定めをする形で幼稚な教えの中にいる幼稚な状態です。
しかしながら、御霊の領域に入ることで大人に成長していくのです。
幼稚な教えの中にいるものはこの世に支配されているもので、パウロは文字によって主に仕える務めと言っています。
[コリント人への手紙 第二 3:6]
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
ユダヤ人はこのように神の言葉を文字として常に罪定めするものにしてしまいました。
それを主に仕える務めとしてしまったのです。
つまり、言い換えるなら、宗教にしてしまったのです。
善悪の木だけで、善悪の世界で生きている人たちは、自分の力で何でもできるし、すぐ罪定めをしてしまう性格を持っています。
善悪の知識の木の本質的な意味を悟らせ、また実現に入ら至らせるのは「いのちの御霊の律法」です。
「いのちの御霊の律法」とは、いのちの源であるイェシュアそのものなのです。
イェシュアがいなければ、常に人間は善悪の知識の木の中に押し込まれて、すべて罪定めをして生きるようになるわけです。
「これをしちゃだめこれをしちゃいけない、これをしなさい、あれをしなさい。」と、規則が来て、それに伴う罰則を作って、そこに支配されていくのです。
「いのちの木」と「善悪の知識の木」はセットで初めて神の御心を実現できるのです。
後者は人に要求する内容ですが、前者はいのちを実現させる力を与えています。
神の言葉である「木」は全てが大事なのです。
すべてを食べなければいけないのです。
神の「御心」と「御心を実現させる力」をセットにして食べなければいけないのです。
律法そのものが、悪者というわけではなく、いのちの木に行き着く為に通らされる過程ではあったのでしょう。
[ローマ人への手紙 3:20]
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
ローマ書にも、律法は聖なるものだと書かれてあります。
[ローマ人への手紙 7:12]
ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
ところが、人間側に、それを守り切る力がないのです。
[ガラテヤ人への手紙 3:11]
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
けれど、律法があったからこそ、私たち人間には、それを守り切る力がないことを思い知らされたのです。
そして、完全に義なるお方、イエスキリストのみが律法を行うことができるお方であり、私たちにもその力と助けをくださえる「いのちの源泉」である御霊をくださるお方であることが分かったのです。
[ガラテヤ人への手紙 3:23,24,25,26,27]
信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」
神は全知全能なるお方なので、全ての流れは神の中で既に想定内であり、それ故に、イェシュアの十字架を予め用意してくださっていたのですね。
神の計らいは私たちの思いを超えているのです。神が人となって地上に来てくださって死と復活を通られて生きる御霊となって私達の内側に住んでくださるようになったこと、また、私達には到底、守り切ることのできない律法を、ただお一人完全に全うしてくださったこと、本当に感謝なことですね。