聖書の真理を求めて

イエス様を慕い求めます。聖書はイエス様について記されています。

律法と恵みについて


(律法は旧約聖書でのことだけではなく、

今も律法主義としてクリスチャンを縛っています。
『〜してはならない、〜しなければならない』のように
クリスチャンの心に働きかける敵の囁きがあるのです。
今日は、律法と恵みについて考えててみたいと思います。)

パウロによってもたらされたものは恵みが全てです。
恵みが新しい契約の全てです。
新しい契約は律法についてではありません。
教会では確かに私たちが聖なる者であることについては語ります。
聖なる者になっているということは、神の似姿になるということです。
そして私たちが聖なるものであるべきなのは間違いありません。
しかし、私たちは自分の力では聖なる者にはなれないのです。
自分の力で聖なる者となろうとしても、あなたは梅干しのようになるだけです。
正しいことをしているんですけれども、いつも不機嫌そうなのです。
 
神にとって、私たちの宗教的な行動はそこまで重要ではありません。
私たちが宗教的に神に従う事は神を喜ばせないのです。
けれども、新しい契約では、信仰による従順が求められています。
これは旧約聖書には出てこないフレーズですね。
では、この信仰による従順とは何でしょう。
信仰とは正しく信じることです。
正しく信じることが正しく生きることになります。
間違って信じると間違って生きることになります。
どう信じるかが、あなたの人生を決定づけるのです。
今日の世の中は、「こう信じなさいよ」という戦いを常にあなたに仕掛けていきます。
ソーシャルメディアやマスメディアなどのあらゆるものを通してです。
 
エス様が言っているように、あなたの敵は常にあなたから盗み、
あなたを殺し、滅ぼそうとしています。
でも、敵はまずあなたから盗む前に、あなたに間違った考えを吹き込んできます。
サタンがあなたの心に勝手にずかずか入ってきて、盗むことはできないのです。
先ずは、あなたの許可を得なければなければならないからです。
そして、それはあなたに間違って信じさせることで起こります。
【「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭10‬:‭10‬ 新共同訳‬】
 
エス様が来たのは命を与えるためです。
もっと良い車を与えるためではありません。
もっとお金を与えるためでもありません。
エス様が来たのは命を与えるためです。
物質的にいくらあっても命を失ってしまっているということがあります。
エスは命を豊かに与えてくれるのです。
エス様のその命を受ける時、人生に困難が残っていても、
「人生ってすばらしいな」と心の底から思えるはずです。
それは、あなたには真の豊かさがあるからです。
エス様は1番高いところから1番低いところに降りてきて、
最悪の状態にあった私たちを愛し抱きしめ、一番高いところに連れて行ってくれました。
【「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭2‬:‭6‬ 新共同訳‬】
 
 
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって与えられたのです。
モーセは神のしもべでした。
エスキリストは生ける神の御子であり、神に愛された息子でした。
恵みは無償で神から与えられるものですが、律法には行いが要求されるのです。
律法によって義とされる者は誰一人いません。
そこに、イエス様が人となって降りてきてくださる必要があったのです。
 
 
【「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」‭‭ヤコブの手紙‬ ‭2‬:‭10‬ 新共同訳‬】
【「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」ヨハネによる福音書‬ ‭1‬:‭16‬-‭17‬ 新共同訳‬】
恵みとは自分の力で得るものではありません。
自分には相応しくないほどの神からの好意です。
誰にもこの恵みの定義を変えさせてはなりません。
どういうわけか、肉はこの恵みの真理を相当嫌っています。
 
モーセは神のしもべでした。
神は意図的にモーセに律法が与えられるようにしました。
律法は神の心を表すものではなく、神の基準と欲求を示すものでした。
そして、律法は人は自分で神の基準を満たすことはできないことを示す為のものでした。
ですから、神はしもべを通して律法を与えました。
ですが、恵みと真理そのものであられる子イエスが地上にやってきました。
私たちが神を愛したのは、神がまず私たちを愛してくださったからですよね。
私たちが神が私たちを愛してくださっていることを知っているからこそ、私たちは愛せるのです。
私たちが神の人も愛せるとしたら、それは神がまず私たちを愛してくれたからです。
そして、そのことが最も律法における重要な戒めである「あなたは、心を尽くし、命を尽くし知性を尽くして、あなたの神を愛しなさい」の成就ではありませんか。
でも、ただ「あなたの神を愛しなさい」と言われても、こう答えるしかないでしょう。
「頑張ったけれど、礼拝には行けなかった。疲れてて起きれなかった。
疲れていて聖書を読めなかった。」
 
ただ、要求をつけつけるだけだとこうなってしまいますね。
律法は鏡のようなものとしてデザインされました。
つまりそれはあなたにはそれが果たせないという現実を突きつけるものなのです。
それはあなたがそれ(律法)を果たして誇るためのものではありません。
むしろ、あなたの高慢を打ち砕くためのものです。
律法を完全に守れる人はいません。
私たちは守っているぞと言っているパリサイ人たちも、エスの山上の説教を聞いて、面食らったことでしょう。
律法には「姦淫してはならない」と書かれています。
しかし、イエス様からは「情欲を抱いて女を見るものは、心の中で既に姦淫を犯したのです」と言われてしまうのです。
 
その上でさらにイエス様は言いました。
「もし右の手があなたをつまずかせるなら、右の手を切って捨てなさい。
あなたの目が罪を犯させるなら捨てなさい」とおっしゃったのです。
これが従う教会のスタンダードであるべきなのでしょうか。
教会は切断手術を受けた人の病棟のようにならなければならないのでしょうか。
エス様本当は何をおっしゃりたかったんでしょうか?
エスがここで伝えているのは、神の基準が完璧であるということなのです。
エスはここで律法本来の基準に引き戻したのです。
人は律法を自分たちで何とか守れる程度にまで引き下げます。
でも、イエス様は山上の説教で、律法を本来の基準に引き戻しました。
そして、その基準においては、すべての人が罪人です。
誰も完全に守り切ることなどできないのです。
 
ここで、イエスは「あなたが手と目がつまずかせるなら切って捨てなさい」と
おっしゃいましたね。
無実な人は1人もいません。
律法は鏡のようなものです。
そしてその鏡が醜いあなたの姿を写しても、その鏡を責めはしないでください。
(律法を責める事はしないでください。
律法はただあなたの醜さを映し出しているだけなのですから。
あなたの罪をあぶり出しているだけなのですから。)
鏡はただ的確なだけなのです。
鏡はただ的確に映し出しているだけなのです。
鏡のおかげで、自分の顔についた汚れに気づくことができるのです。
鏡に感謝しましょう。
それに気付けたからこそ、それについて対処ができます。
鏡を手に取って、その鏡でその顔の汚れを落とそうとすることなんてできますか。
そんな馬鹿な事はしませんよね。
鏡はただ映しているだけなんです。
ですから、その鏡を顔の汚れを取り除くために使ったりはしません。
そんなことをしてもうまくはいきません。
鏡はただ汚れを映し出しているだけです。
 
では、その汚れを取り除いてくれるものは何でしょうか。
それが恵みなのです。
律法はモーセによって与えられました。
それは遠くからでもできます。
でも恵みと真理は自らやってきてくれましたました。
恵みと真理そのものである神の御子イエスはとても小さくて、みすぼらしい場所に生まれ、この地上にやってきてくれたのです。
神は私たちを愛しています。
神は私たちのためにあなたの愛するひとり子さえも惜しむことなく捧げてくれたからです。
【「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4‬:‭19‬ 新共同訳‬】
これが恵み、無償の提供です。
 
肉は恵みを嫌っています。
実際は罪を更に掻き立てるのが律法です。
【「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭15‬:‭56‬ 新共同訳‬】
罪の力は律法です。だから、サタンは光の御使いに変装して、
何度も何度も律法をあなたの人生に引き戻そうとします。
 
エスはこの地上で生きた時、人々に向かってこう言いました。
【「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」」マタイによる福音書‬ ‭11‬:‭28‬-‭30‬ 新共同訳‬】
エス様は、どの重荷のことを言っていたのでしょうか?
これは彼らの農作業の事ではありません。
これは、パリサイ人が、彼らに負わせていた「くびき」のことです。
そして、その「くびき」とは、『これをしなければいけない。あれをしなければいけない』というくびきだったのです。
神はあなたに「くびき」を与える時、また重荷を与える時、
それが何であっても、必ずその前にまずそのための恵みと賜物を与えてくれます。
だからあなたがそのくびきを負って働く時、それはあなたにとっては負いやすく、そして軽いのです。
もし神から与えられた重荷が重過ぎると感じているならば、あなたは自分の重荷を取り違えています。
他の人の重荷を間違って取っちゃったんでしょう。
誰かが笑顔で持ち上げている重荷を他の人が持ち上げることはできません。
 
エスと同時代に生きたユダヤ人たちは十戒を知っていたと思いますか。
当たり前です。
彼らは幼児の頃から律法を暗記していた人たちですよ。
そして、彼らはラビが教える律法の学校に通っていました。
その律法に精通している彼らに向かってイエスはこう言いました。
「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」
ユダヤ人は1500年もの間、律法の下にいましたが、
一人としてそれを完全に守れた人はいませんでした。
ダビデでさえもだめでした。
誰も律法を守る切ることなどできなかったのです。
でも、律法はイエスが来るまでのことです。
エスが来て、恵みと真理が来たのです。
ハレルヤ
無償提供の訪れです。
神は新しい契約でこう言いました。
【「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。」エレミヤ書‬ ‭33‬:‭8‬ 新共同訳‬】
新しい契約はこのように全て「神のわたしが何々をする」です。
そして、「神はあなたの罪を思い出さない」と仰ってくださるのです。
【「わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい 
あなたの罪を思い出さないことにする。」‭‭イザヤ書‬ ‭43‬:‭25‬ 新共同訳‬】
 
パウロはこう言いました。
【「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」コリントの信徒への手紙一‬ ‭15‬:‭10‬ 新共同訳‬】
これは言い換えるならば、神は神のために働くための恵みをあなたに与える」ということです。
それがギターを弾くことであっても、教会に来た人を席に導くことであっても、
教会の子供のクラスで教えることであっても、ビジネスビジネスでお金を稼ぐことであっても、神はあなたの使命のために恵みを与えています。
だから自分に恵みを与えられていないエリアで機能しようとしないでください。
それは大変で重たい重荷です。
でも恵みのエリアで機能するのは老いやすく軽い重荷です。
じゃぁ、私は勤勉に働く事には反対なのでしょうか?
そうではありません。
私は恵みの中で勤勉に働くことを勧めているのです。
最後にこの頃人への手紙の箇所を読んで終えたいと思います。
 
【「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」コロサイの信徒への手紙‬ ‭1‬:‭29‬ 新共同訳‬】
これは矛盾しているようで矛盾していません。
私は自分の内に力強く働くキリストの力によって一生懸命働いています。
これをもう少しシンプルに説明しましょう。
「私パウロは一生懸命に働いています。
でも私が一生懸命に働くのは私の内に与えられている恵みが導いてくれるエリアにおいてです。」
私は子供が大好きだから子供たちに関わる奉仕をしている。
私は若者たちに教えるのが大好き。
それを想像するとワクワクする。
だから、若者にたちに教える奉仕をしている。
若者でも、若者に教えるなんて耐えられないと言う人もいますね。
その人たちはそこで奉仕しちゃダメなんです。
その人はそのエリアにおいての恵みを与えられていないのです。
そのように勤勉とは恵みを与えられているエリアで発揮されるべきものなのです。
でなければ、与えられた恵みを無駄にしてしまいかねません。
 
これは神が何かをするようにと恵みを与えたのに、それをしなかったらその恵みは無駄になると言うことです。
どうか忘れないでください。
私たちはあらゆる祝福を恵みによって受け取ります。
神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださいました。
ですが、神はそれだけではなく、神がもともと与えてくれた恵みを有効に活用した私たちに
ご褒美さえも与えてくれるのです。
その恵みを与えてくれたのは神なのにそれを活用した私たちに神がご褒美を与えてくれるんです。
何と言う神でしょう。
恵みの上にさらに恵みを与えてくれる神ですね。
恵みが注がれてそれをする。
やる気も願望も生まれた。
でも他にすることがあるからできないや。
そうやって、その恵みは無駄になってしまいます。
そして、しばらくするとその恵みは、他の誰かに移される。
そしてあなたが受けるはずだったご褒美はその人が代わりに受けることになってしまった。
ちなみに言っておきますが、神のご褒美は大盤振る舞いです。
エスは実践的に私たちの必要を満たしてくれます。
私たちが自分で自分の必要がわかっていない時も、イエスはそれを知っていて、
その必要を満たしてくださいます。
 
by ジョセフプリンス