この章より創世記の最後まで「ヤコブの家の歴史」が記されていきます。
特にヨセフを中心とした物語が展開していきます。
そして最後(49、50章)はヤコブの死と葬りについて記されて締め括られるという形になっています。
ヤコブがエジプトに行ったのは130歳の時でした。
ヤコブの一生は147歳なので、エジブトで過ごした年月は17年間です。
その間、エジプトへ行くまでヤコブの家族にどんなことが起こったのかが37~50章に書かれています。
ヤコブは他の兄弟たちのだれよりもよりもヨセフを愛しました。
「愛した」、「憎む(きらう)」、「妬む」などの言葉が散りばめられています。(37
「愛する」は、「かわいがる」と訳されている聖書もます。
好きとか嫌いという感情を聖書ではすべて「愛する」、「憎む」という言葉で表わされています。
これがユダヤ的表現のようなのです。
「愛さないことは憎むこと」となり、その中間的表現がないように思われます。
親が子どもを偏愛すること、そしてそれがもたらす弊害について、私たちはその善悪を論じられることが多い聖書箇所です。
けれども、聖書で書かれている記述はそのような道徳的な観点だけですませられる問題ではありません。
そこには、その事実が生じる「愛と憎しみ」のドラマが淡々と描かれています。
けれども、どの出来事の背後にも神の介入と神の思惑が隠されているのです。
この世の歴史は全て神のご計画の通りに動いているわけですから、人の「愛憎劇」の裏にも、それを用いて歴史を動かしておられる神の御心が働いているのです。
家庭における「愛と憎しみ」は今にはじまったことではありませんでした。
ここでは神がアベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物に目を留めなかったという事実によって、最初の殺人が引き起こされました。
それぞれの関係性の中で、ひとつのしかない祝福、ひとつの家督権、あるいは一人の夫の愛をめぐる愛憎劇を見ることができます。
さらに歴史を紐解いてみると、ぺニンナとハンナなど、愛憎の種を見出すことになります。
人間が生きていく上で最も必要な家族、その家族の中で人間の罪が渦を巻いているのです。
もし、神がいるなら「なぜこんなことが・・・(起こるはずがない)」というような見方をしても意味がありません。
そのように偏見を抱いて現実を捉えようとするなら、おそらく神につまずいてしまうことになるでしょう。
イエスさまも「私が来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」(マタイ10:34)とおっしゃっています。
こうして、人間の自分勝手な思い込みに釘を指しています。
37章では父ヤコブがヨセフを偏愛しています。
伯父のラバンに騙されてレアを娶らざるを得なかったことによって、図らずも、レアが夫の愛を自分に向けるために多くの子ども産んでしまったという事情がありました。
このような顛末の末に、結果的に多くの子どもが生まれてしまったのです。
それぞれの立場を思えば、善悪を論じることは妥当ではないと思います。
善悪を論じる時、人それぞれの善悪の基準や価値観が映し出されることになります。
聖書の神は人の善悪を越えて働いておられるのです。